日本人・笹川能孝を語る

平家物語に「鵺(ぬえ)」という架空の動物が、登場するのをご存知だろうか?

その姿は、顔は猿に似て、胴は狸、手足は虎、尻尾が蛇であったという。

しかし、鵺の姿を見たという人に尋ねると、ある人は「あれは猿の一種だ」と言い、別の人は「いや、虎の仲間だ」、さらに「いや、狸だ」、「蛇に違いない」と、それぞれが違った評価を断定的に述べるのだ。それは、各自が自分の眼の前に現れた、巨大な未知の怪物のごく一部分だけを見て、つたない経験と先入観とでもって、何らかの既存の枠組みにはめ込もうとする、極めて常識人的な発想なのであろう。

だが、それでは本当の鵺の姿を理解することはできないのだ。自分よりもはるかに巨大な存在を正しく認識するためには、単一の視点で狭く捉えるのではなく、全体を総合的に見渡した上で判断する必要がある。私たち現代人は、溢れかえる情報をもとにして、何事をも小さくカテゴライズしてしまおうとする傾向がある。この鵺の逸話は、そのような発想に対して警鐘を鳴らしているのではないかと、私は捉えている。

さて、笹川能孝であるが、私は初めて彼に逢う日、まさに平安の都で鵺に出逢う心持ちで、その場に臨んだものである。

彼は、実に立派な「鵺」であった。おそらく、私が見て感じた笹川能孝はごく一部分であり、他の人はそれぞれの視点で見た彼を感じているであろう。つまり、それぞれにとっての「笹川能孝」が存在しているのだ。彼はそれを良しとし、もしかしたら彼はそれを心地良く感じているのではないだろうかと、私は勝手に思っている。

残念ながら、私は未だ「鵺」のような存在にはなれていない。何故なら、私には「肩書き」という小さな世間における枠があり、それでしか見てもらえない存在である時が多いからだ。私は、笹川能と出会い、一つの人生の目標に気付くことができたと思う。それは、常に姿を変えながら発展し、成長してゆく「素晴な鵺」になることである。

ちなみに、源平盛衰記に登場する鵺は、背が虎で足が狸、尾は狐になっており、さらに頭が猫で、胴は鶏と書かれた別の資料も存在するなど、その実体は分からないのであるが、それがまた素敵ではないか。平安ならぬ平成の空を駆ける未知の怪物~笹川能孝の姿を、私はずっと追いかけていたいものである。